OVERRIDE 2022 / INFORMATION SPACE STUDY 02
本連載は、情報空間における言説の形成・拡散過程を分析するものであり、特定の医学的見解、治療法、または特定のワクチンの有効性・安全性を評価することを目的としません。
感染症、ウイルスおよびワクチンに関する医学的判断については、公的機関および医療専門家が示す最新の情報をご確認ください。
本稿で用いる「反ワクチン」等の表現は、2022年当時に観測された言説上の傾向・自己表明を整理するためのもので、個人や集団全体への医学的・人格的評価ではありません。
2022年2月下旬、日本語圏で「ウクライナ」「NATO」「生物兵器」という語を新たに使い始めた発信者がいた。前月まで感染症とワクチンを論じてきた発信者たちである。しかし当社の観測記録が示しているのは、乗り換えではない。反ワクチンの発信は、止まっていなかった。
起点は開戦前日ではなかった
第1話で述べたとおり、当社の観測期間は2022年1月4日から3月5日である。年表に置いた「2月22日前後の投稿量の変化」は、この回で扱う対象群に生じたものである。
ロシアがドネツク・ルガンスクの独立を承認したのは2月21日である。翌22日から、複数の観測対象で投稿数の増加が始まり、全面侵攻の24日にピークに達した。
増加は一つの対象にとどまらない。親露的な発信を日常的に行っていた別の対象でも、同様の推移が確認されている。また、中国語圏のアクターを含む別系統の対象群でも、同じ22日を起点とする増加が検出された。
全面侵攻の前日ではない。独立承認の翌日である。増加の起点は、全面侵攻ではなく独立承認に一致していた。
ドネツク・ルガンスクの独立承認
複数の対象で投稿量が増え始める
全面侵攻開始/ピーク
主な観測期間の終点
【限定】本図は当社が選定した対象群に関する記録であり、日本語圏全体の傾向を示すものではない。増加の規模は本図に示していない。
本稿で「言説」「経路」が指すもの
本稿の「感染症言説」「親露言説」は、2022年当時に観測された投稿内容上の傾向を整理するための区分であり、発信者個人の政治的立場や医学的見解を評価するものではない。
「経路」とは、ある主張が発信者から読み手へ届くまでに通る媒体と参照関係の連なりを指す。投稿が引用する外部URL、その転載元、共有した別アカウント群を含む。通信経路のような技術的な意味ではない。
反ワクチンの発信は、止まっていない
侵攻を機に、発信者は主題を乗り換えたのか。当社は観測対象の投稿履歴を形態素解析し、開戦前後で出現語の順位を比較した。
観測結果は次のとおりである。開戦前、ウクライナ・ロシアに関連する語の出現順位は下位にあった。開戦後、これらの語を含む投稿と日本への言及が増加した。そして反ワクチンに関する発信は、並行して続いていた。
両者は同一のブログサービス上で併存していた。新しい主題が加わっても、置き場所は変わっていない。
決定的なのは「並行して」である。反ワクチンの発信は捨てられていない。その上にウクライナに関する発信が積み増された。
これは置換ではない。乗り換えでもない。一方、開戦前にウクライナ関連語の順位が低かった以上、「もともと親露的発信をしていただけ」でもない。観測されたのは、既存の発信を維持したまま新しい主題を加えるという動きである。
本節の比較に用いた開戦前の期間は数日規模であり、長期の基準線ではない。したがって「開戦前には存在しなかった」ではなく「開戦前の順位は下位であった」までが、当社の観測が支える記述である。確度は中。根拠は一次実測。対象は当社が選定したアカウント群であり、日本語圏全体の代表性を主張するものではない。
積み増された先も、同じ経路だった
この併存は、一部の発信者に限られた現象ではない。「ウクライナにアメリカの生物兵器研究施設があり、ロシア軍はそこを攻撃している」という言説について、当社が2022年2月28日から3月2日までの約3日間に抽出した関連投稿7,500件を分析したところ、頻出する参照先ドメインの上位に、ブログサービス、動画共有サービス、そして在ウクライナ米国大使館のページが並んだ。
ブログや動画共有サービスには、長い説明・画像・公開文書を一つの物語としてまとめて置くことができる。一度そこで物語が構成されれば、SNS上では、リンクと短い結論を共有するだけで足りる。感染症を扱っていた保存先がそのままウクライナ情勢を扱い始めれば、読み手は別の場所に移る必要がない。
この7,500件だけで、インプレッションの総数は約900万件に達している。これは拡散全体の一部分にすぎない。
参照先に米国大使館の公開ページが含まれている点は、注意を要する。公開されている本物の文書が、そのまま「隠されていた証拠」として引用されている。この構造は第3話で扱う。
反ワクチンの発信と同じ場所である
読み手は別の場所に移る必要がない
【限定】本図は経路の構造を示すものであり、特定のブログサービス・動画共有サービスが工作に関与していることを示すものではない。7,500件は拡散全体の一部分である。
起点の媒体について ― 当時記録したこと、後に判明したこと
参照先の中に、dcweekly.org というニュースサイト形式の媒体があった。日本語圏へこの言説を投入した投稿の一つは、同サイトの2021年12月11日付の記事「United States’ Not-So-Secret Bio Weapons Program in Ukraine」を概訳したものである。
当社は2022年3月の記録で、この媒体について次の点を確認している。
- 執筆者名義「Christopher Dunlop」で1,000件以上の記事が投稿されているが、そのアイコン写真は、別のSNSでは異なる人物名として、またナイジェリア所在のIT企業サイトでは「お客様の声」の人物として使用されていた
- 執筆者名義「Mark Wallace」で1,000件以上の記事が投稿されているが、そのアイコン写真はスペイン人モデルのものであり、同人物が2015年1月に自ら公開した写真と一致した
当時の当社の評価は「著者を明確にせず真偽不明瞭な記事を多く発信している。特定国家による情報戦の一端である可能性がある」というものであり、運営主体の特定には至っていなかった。
その後、外部機関が同じ媒体を調査した。米国の報道評価機関 NewsGuard は2023年11月に当該ネットワークを検出し、2024年5月29日に特別報告を公表した。同報告は dcweekly.org を、ロシアの偽情報ネットワークの中核の一つと位置づけている。そこで挙げられた偽名義の一つは、当社が2022年3月に記録したのと同じスペイン人モデルの写真を用いていた。
つまり、当社が当時「名義が偽装されている」として記録した事実は、約2年後に外部機関が公表した内容と一致した。
当社が2022年に把握していたのは名義の偽装であって、運営主体でも、ネットワークの全体像でもない。先行していたのは観測であって、帰属判断ではない。
六つの説明を検定する
同じ時期に同じ変化が起きたこと自体は、何かを立証するものではない。変化を説明しうる仮説は複数あり、それぞれ必要な証拠が異なる。当社が公開情報の範囲で検定できたもの、できなかったものを示す。
| 説明 | 観測との対照 | 判定 |
|---|---|---|
| 社会的関心の自然な移動 | 自然な移動であれば主題の置換が起きるはずだが、観測されたのは反ワクチン発信の継続と併存である | 単独では説明にならない(確度:中) |
| 既存の解釈枠との親和性 | 開戦後の増加語には日本への言及が伴い、生物兵器言説は米国を批判の対象とする文脈で用いられていた | 観測と整合する(確度:中) |
| ネットワーク内の模倣 | 同一言説が短期間に複数対象へ広がる形は確認できるが、模倣と協調を投稿間隔だけで分離できていない | 保留 |
| 推薦アルゴリズムの作用 | プラットフォーム内部のデータを要する | 検定不能 |
| 対象群内での意識的な協調 | 中国語圏のアクターを含む別系統の対象群では、元投稿の趣旨を書き換える投稿が数分から数十分のうちに連鎖する事例が観測されている。ただし本節の対象群とは別の群である | 保留(別群では示唆あり) |
| 国外主体からの働きかけ | 指示・資金・身元偽装の証拠を要する。起点となった媒体については後年に外部機関が帰属を公表したが、日本語圏の各発信者について当社は何も観測していない | 本稿の観測範囲外 |
推薦アルゴリズムと国外主体からの働きかけについて、当社は判断を保留しているのではない。公開情報だけでは原理的に判定できないと述べている。「可能性がある」と書けば示唆になり、「証拠がない」と書けば否定になる。いずれも観測に裏づけられない。
先行研究との関係 ― 測っている向きが違う
この分野には大規模な先行研究がある。ポーランドのKozminski大学の研究チームは、X利用者3,600人・投稿350万件を分析し、反ワクチン系アカウントのうち侵攻後に反ウクライナ的な投稿へ移行したのは6.39%であったと報告している。研究者は「意図的で組織的なキャンペーンとは言い難い」と述べている。
これは当社の観測と矛盾するようにも読める。しかし矛盾していない。測っている向きが違う。
先行研究が測ったもの
- 母数:反ワクチン系アカウント全体
- 問い:そのうち何%が反ウクライナ的投稿へ移行したか
- 結果:6.39%(大半は移行していない)
当社が観測したもの
- 母数:親露的言説を発信した対象群
- 問い:その発信者は並行して何を書いていたか
- 結果:反ワクチンの発信が継続・併存していた
【限定】本図は二つの調査の設計の違いを示すものであり、先行研究の結論を否定するものではない。両調査は対象言語圏・標本・期間がいずれも異なる。
先行研究が測ったのは「移行」である。当社が観測したのは「併存」である。反ワクチンの発信を続けたまま、ウクライナに関する発信を加えた発信者は、「移行した」とは分類されない。移行を数える指標は、追加を捉えられない。
さらに条件付き確率の向きも異なる。先行研究は「反ワクチン層のうち何%が動いたか」を測っている。当社が見ているのは「親露的言説を発信した側が、並行して何を書いていたか」である。反ワクチン層の大半が動かなかったことと、親露言説の発信者の多くが感染症を書き続けていたことは、同時に成り立つ。
この二つを取り違えることは、この分野で最も頻発する誤りである。当社の観測は先行研究を否定するものではなく、先行研究の指標が構造上取りこぼす現象を記録したものとして読まれるべきである。
本稿の観測が到達している段階
第1話で、観測事実から帰属評価に至る4段階を示した。本稿の観測が到達しているのは、第2段階(投稿量・語句・共有先の変化)から第3段階(対象間の関連性の可能性)の入口までである。第4段階には達していない。
なお、選定に用いた特徴を、後段で不審性の根拠として再利用してはならない。
残ったのは何か
主題は置き換わったのではなく、追加された。感染症に戦争が、ワクチンに生物兵器が、製薬企業への批判にNATOへの批判が加わった。それ以前の主題が捨てられた形跡はない。
追加された先も、以前と変わっていない。同じブログに書かれ、同じアカウント群が共有し、同じ読み手に届いた。経路が残るかぎり、次の主題も同じ読み手に届く。実際、2022年3月10日以降、拡散の中心は「生物兵器」から「化学兵器」へ移っている。経路はそのままに、運ばれる主題だけが入れ替わった。
本稿が記録したのは、言説の内容ではなく、それを運ぶ経路の持続性である。内容の真偽を一件ずつ判定する作業は必要だが、それだけでは経路は見えない。経路を見るには、誰が何を参照し続けているかを、主題が変わる前から観測しておく必要がある。2022年1月4日に観測を始めていたことの意味は、この点にある。
参照した外部資料
- NewsGuard「The Fugitive Florida Deputy Sheriff Who Became A Kremlin Disinformation Impresario」(2024年5月29日)
- Science in Poland:Kozminski大学による反ワクチン層とウクライナ言説の重なりに関する調査
- Sánchez del Vas & Tuñón Navarro (2024)「Disinformation on the COVID-19 pandemic and the Russia-Ukraine War」Humanities and Social Sciences Communications
- OECD (2022)「Disinformation and Russia’s war of aggression against Ukraine」
- 在ウクライナ米国大使館「Biological Threat Reduction Program」