OVERRIDE 2022 / INFORMATION SPACE STUDY 03
本連載は、情報空間における言説の形成・拡散過程を分析するものであり、特定の医学的見解、治療法、ワクチン、病原体または研究活動について独自の医学的評価を示すものではありません。
感染症、ウイルス、病原体および公衆衛生研究に関する判断には、公的機関と専門家が示す最新の一次情報をご確認ください。
本稿は「研究施設の存在」「国際協力」「生物兵器計画」を別個の主張として扱い、確認可能な事実と推論を区別します。
「生物学に関係する施設がある」と「生物兵器を開発している」は、同じ意味ではない。「米国が支援している」と「米国が秘密兵器を製造している」も、同じ主張ではない。しかしSNSでは、この間にある複数の段階が省略される。
公開文書に記載された協力事業が切り取られ、「米国の研究所」と言い換えられ、さらに「生物兵器施設」と断定される。最後には「ロシア軍は危険な施設を排除している。したがって軍事行動は正当である」という結論まで付け加えられる。
当社は2022年2月から3月にかけて、この言説が日本語圏へ入り、広がっていく過程を記録した。本稿はその記録と、同じ時期に進んだ国際的な手続の経過を並べて読む。
一つの主張を五つへ分解する
当社が2022年3月6日付の記録に残した定型文は、次のものである。
ウクライナはディープステートの拠点である。ウクライナにアメリカが作った生物兵器研究所が複数存在している。ロシアはその生物兵器研究所がある場所を攻撃している(だから正しい)。
三つの文が並んでいる。しかし、そこに含まれている主張は五つある。
【限定】本図は主張の構造を分解したものであり、各段階の真偽を判定するものではない。
各主張には、それぞれ別の証拠が必要となる。本稿はこの五段階に沿って、当社が観測したものと、公開されている手続の記録を対照する。
「生物兵器」は、単独では流通していない
第2話で述べたとおり、当社は2022年2月28日から3月2日までの約3日間に、この言説に関連する投稿7,500件を抽出している。その7,500件に共起していたタグを見ると、この主張が単独の命題として流通していたのではないことが分かる。
#ウクライナ #ロシア #プーチン
#生物兵器
#人身売買 #アドレノクロム
#アメブロ #ニコニコ動画

【編集】実在の個人を対象とする内容を含むタグ、および特定の投稿を指す識別子は、灰色で伏せている。伏せた箇所は5か所。
【限定】本図は共起の事実を示す。タグの利用者が同一であることや、媒体が工作に関与していることを示すものではない。順位・件数は示していない。
情勢の語と並んで「生物兵器」が現れる。ここまでは当然である。問題はその隣にあるものだ。
「人身売買」「アドレノクロム」は、ウクライナ情勢とは別に成立していた陰謀論の主題である。それが同じ投稿群の中で、同時にタグ付けされている。
つまり「ウクライナに生物兵器研究所がある」という主張は、新しく作られて単独で運ばれたのではない。すでに流通していた物語の束に、一項目として加えられた。受け手にとって必要だったのは、新しい世界観を受け入れる作業ではなく、すでに持っている枠に一つ足す作業だった。
もう一点ある。共起タグには保存先の媒体名そのものが含まれていた。主張の内容ではなく、それがどこに置かれているかが、一緒に流通している。
施設と国際協力の存在は、公表されていた
ウクライナには公衆衛生や感染症監視に関わる研究・検査施設があり、米国を含む国外機関が安全管理、疾病監視、脅威削減等の協力を行ってきた。米国政府の説明も、ウクライナが自国の公衆衛生研究所を所有・運営し、米国が安全な疾病監視と対応能力を支援してきたとしている。
研究所、病原体、安全設備、国外資金という単語は、それだけで兵器計画を意味しない。
施設の存在、国外支援の存在、危険な病原体を扱うこと、生物兵器を開発すること。これらはそれぞれ別の事実命題である。一つが確認されても、他が確認されたことにはならない。
公開文書が「秘密の証拠」に変わる
7,500件の投稿が参照していた先を分類すると、性格の異なる三つの層が現れる。それぞれ果たした役割が違う。
| 類型 | 観測された参照先 | 果たした役割 |
|---|---|---|
| 本物の公的文書 | 在ウクライナ米国大使館の公開ページ | 「隠されていた証拠」として引用され、主張に真正性を与えた |
| 名義を偽装した媒体 | dcweekly.org |
記事の体裁を与え、日本語圏への投入元になった |
| 規制の緩い保存先 | ブログサービス、動画共有サービス | 長い説明と画像を一つの物語として保存し、SNS上はリンク共有で足りるようにした |
【限定】米国大使館の公開ページは、当該言説とは無関係に公開されていた文書である。本図は特定のブログサービス・動画共有サービスが工作に関与していることを示すものではない。
第一の層について、当社の記録は具体的である。米国大使館の公開ページを引用した投稿の多くは、「これを生物兵器研究所とし、ウクライナ(もしくはアメリカ)が隠蔽を図っている」という形をとっていた。公開されている文書が、隠蔽の証拠として提示される。
第三の層について、当社が当時記した評価は「ブログは閲覧のためのアカウント登録が不要で、規制がかかりにくい」というものだった。同じ性質は、反ワクチンを含む他の言説でも繰り返し観測されている。
こうして情報空間では、公開されていた契約、施設名、病原体名、研究用語が「隠されていた事実」として再提示されることになる。「脅威削減」「病原体」「バイオセーフティ」「国防総省」といった語だけを並べれば、専門的な協力事業は秘密計画の断片のように見える。
【限定】本図は言い換えの段階を整理したものであり、個々の発信者がこの順序を意図して用いたことを示すものではない。
公開情報の存在と、生物兵器計画の存在は同義ではない。文脈が省略されるたびに、主張の種類が変わる。
国連が述べたこと、述べていないこと
同じ時期、この疑義は国際的な場でも扱われている。
2022年3月11日、第8991回会合。軍縮担当上級代表 Izumi Nakamitsu は、国連はいかなる生物兵器計画も認識していないと述べた。同時に、生物兵器禁止条約には独立機関による多国間の検証機構が存在せず、遵守の評価は締約国の任務であることを説明している。
2022年5月13日、第9033回会合。軍縮担当上級代表次席 Thomas Markram は3月の説明を維持したうえで、本機関は現在、この情報を調査する権限も、技術的・運用上の能力も有していないと述べた。
2022年10月27日の会合でも、同旨の説明が行われている。
したがって、国連の説明を「独自の査察によって不存在を証明した」と言い換えるのは正確ではない。確認されたのは二点である。国連が生物兵器計画を把握していないこと。そして当時の枠組みでは、国連に独自調査の権限も能力もなかったこと。
この二点を混ぜると、両方向に誤読が生まれる。「国連が否定した」も、「国連は調べていないのだから怪しい」も、この二点からは導けない。
疑義は国際的な手続にも持ち込まれた
ロシアは、生物兵器禁止条約の手続を通じて、ウクライナと米国に対する疑義を正式に提示した。経過は公開されている。
2022年3月11日・3月18日。ロシアの要請により、安全保障理事会が2回開かれた。
2022年6月12日・29日。ロシアが条約第5条を発動し、締約国間の協議手続に入った。
2022年8月26日 — 9月9日。第5条に基づく正式協議会合。米国政府の説明によれば、89の代表団が出席し、42か国が発言、そのうち35か国以上が米国の立場を支持した。会合は結論を出さずに終わっている。
2022年10月。条約第6条に基づく申立てが、安全保障理事会へ持ち込まれた。締約国が第6条により調査委員会の設置を理事会に求めたのは、条約の歴史上これが初めてである。
2022年11月2日、第9180回会合。調査委員会の設置を求める決議案は否決された。賛成2(ロシア、中国)、反対3(米国、英国、フランス)、棄権10。
ここで確認しておくべきことが一つある。これらの手続は、すべて生物兵器に関するものである。化学兵器については、同じ年に双方が化学兵器禁止機関へ書簡を交わしているが、安全保障理事会の正式な手続は行われていない。
必要なのは、どちらかの主張を先に信じることではない。疑義が提示された事実、各国が回答した事実、国連の能力と手続上の限界、決議が採択されなかった事実を、それぞれ分けて記述することである。
安保理会合が要請された時期の、検索動向の記録
本項は参考である。以下に示すのは公開されている検索トレンドの記録であり、当社の観測データではない。ここから言説の規模、因果、支持のいずれも導くことはできない。
ロシアが会合を要請した3月11日・18日の前後にあたる時期、インターネット上の検索動向には次の記録が残っている。「生物兵器」の指数は3月2日から6日にかけて20〜35で推移し、7日1時に88を記録した。また3月10日以降は「化学兵器」の指数がこれを上回っている。言語別に取得した記録では、同じ語への言及が日本語・英語・中国語・ロシア語のいずれでも2月24日付近から増えており、言語ごとに上位の地域が異なっていた。
これらは検索の動向であって、投稿数でも、言説の支持でもない。取得条件(地域指定の有無、検索語かトピックか)が記録に残っていないため、厳密な比較には用いない。同時期に同様の傾向が見られたという事実を、参考として記すにとどめる。

どの段階から証拠が不足するのか
| 主張 | 確認に必要な証拠 | 本稿での扱い |
|---|---|---|
| 関連施設が存在する | 施設・保健当局・事業の公開記録 | 個別に確認する |
| 米国が関与している | 契約、予算、支援内容、運用主体 | 関与の形態を分ける |
| 生物兵器を開発している | 兵器化の計画、命令、設備、検証可能な証拠 | 別個の立証が必要 |
| ロシア軍が施設を標的にした | 位置情報、軍事記録、攻撃記録 | 個別事案を独立検証 |
| 攻撃は正当である | 国際法上の根拠と事実関係 | 事実確認とは別の法的評価 |
証拠の不足は第三段階から始まる。しかし情報空間では、第一段階の確認が第五段階の結論まで、一続きに運ばれていた。
主題は交代し、対象は移された
当社の記録には、この言説のその後が二つ残っている。
全面侵攻。観測対象の投稿量がピークに達する
関連投稿7,500件・インプレッション約900万件
当社の記録に「流布されている言説の転換」
台湾・オーストラリアにも同種の施設があるとする発信が現れる
【限定】本図は当社が選定した対象群および抽出条件に基づく記録である。3月中の発信について、内容の真偽を当社は検証していない。
第一に、主題の交代である。経路は変わっていない。運ばれる主題だけが入れ替わった。
第二に、対象の移動である。2022年3月、日本語圏の観測対象が共有していたメッセージング・アプリ上の発信の中に、台湾とオーストラリアにも同種の「生物兵器研究所」があり、「排除しなければならない施設として取り上げられている」とする内容が現れた。
当社が観測したのは、そうした内容の発信が存在したという事実のみである。主張そのものの真偽を、当社は検証していない。確度は中。根拠は一次実測。
当社が2022年当時に記した懸念は、次のものだった。有事が発生した際、同じ構造が「侵略の正当化」として用いられる可能性がある。
事実の断片は、強い物語を作る
完全な作り話より、確認できる事実の断片を含む主張の方が説得力を持つ。施設がある。国外支援がある。危険な病原体を扱う。そこまでは公開資料から確認できる。そこへ兵器化、秘密計画、軍事標的、侵攻正当化という説明が、一つずつ追加される。
そして本稿が記録したのは、この構造が一件の言説に固有のものではないということである。主題は「生物兵器」から「化学兵器」へ交代した。対象はウクライナから別の地域へ移された。変わらなかったのは、五段階の並べ方そのものである。
OVERRIDEが起きるのは、情報がすべて偽物だからではない。事実の断片が、別の結論へ到達するように並べ替えられるからである。
参照した外部資料
- 国連安全保障理事会 第8991回会合(2022年3月11日)/UN Meetings Coverage SC/14827
- 国連安全保障理事会 第9033回会合(2022年5月13日)/UN Meetings Coverage SC/14890
- 国連安全保障理事会(2022年10月27日)/UN Meetings Coverage SC/15084
- 国連安全保障理事会 第9180回会合(2022年11月2日・決議案否決)/UN Meetings Coverage SC/15095
- 米国務省ジュネーブ代表部「Conclusion of Article V Formal Consultative Meeting under the Biological Weapons Convention」(2022年9月13日)
- 在ウクライナ米国大使館「Biological Threat Reduction Program」